■EU

欧州連合。経済的な統合を中心に発展してきた欧州共同体(EC)を基礎に、欧州連合条約(マーストリヒト条約)に従いまして、経済通貨統合を進めるとともに、共通外交安全保障政策、司法・内務協力等のより幅広い協力をも目指す政治・経済統合体です。本部はベルギーのブリュッセルに置かれています(欧州議会は仏ストラスブール、欧州中央銀行は独フランクフルト)。現在の加盟国は27ヵ国(オーストリア、ベルギー、ブルガリア、キプロス、チェコ、デンマーク、エストニア、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、アイルランド、イタリア、ラトビア、リトアニア、ルクセンブルク、マルタ、オランダ、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、スロバキア、スロベニア、スペイン、スウェーデン、英国)です。 不用品回収の下で越後の守護代を務めた長尾氏出身で初名は長尾景虎(ながお かげとら)。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。主君・上杉定実の正妻の甥にあたり、のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する関東管領に任命される。後に将軍足利義輝より偏諱を受けて最終的には上杉輝虎と名乗った。周辺の武田信玄、北条氏康、織田信長、佐野昌綱らと合戦を繰り広げた。特に五回に及んだとされる武田信玄との川中島の合戦は、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。 自ら ウィークリーマンション の転生であると信じていたとされる。 後世、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれる。 生涯 家督相続 享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代長尾為景の四男(又は三男)・虎千代として春日山城に生まれる。 天文5年(1536年)に兄の長尾晴景が家督を継ぎ、虎千代は城下の林泉寺に入門して住職の天室光育の教えを受けたとされる。実父と仲が良くなかったため、為景から避けられる形で寺に入れられたこととされている。天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、中越の長尾家領統治のため栃尾城に入る。 当時、横浜 マンションでは守護上杉定実が伊達稙宗の子・伊達時宗丸(伊達実元)を婿養子に迎える件で内乱が起こっており、越後の国人衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されていたが、兄の晴景は病弱なこともあって内紛を治めることはできなかった。景虎は元服した同年、病弱な晴景を侮り反乱を起こした越後の豪族を討伐することで初陣を飾った。天文15年(1546年)には黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こすと、景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として黒田氏を滅ぼした。するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。 天文17年(1548年)、定実の調停のもと、12月30日、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する。景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。2年後の天文19年(1550年)には、定実が後継者を遺さずに死去したため、将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認めた。天文19年(1550年)、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。しかし景虎は、翌年天文20年(1551年)に鎮圧している。 衣料の原料となる青苧を栽培し、日本海ルートで全国に広め、財源とした。 冷凍おせちの戦いと関東管領補任 天文年間には甲相駿三国同盟を背景とした甲斐の武田晴信による信濃侵攻と相模の北条氏康による北関東侵攻が本格化しており、甲相同盟により相互に出兵した両者の侵攻により、景虎は二正面作戦を余儀なくされる。氏康による攻勢を受けていた上野平井城に拠る関東管領の上杉憲政が、越後に対して救援を求めた。景虎はただちに出兵して北条軍を破り、憲政を平井城へ戻した。越後の隣国・上野へ力を伸ばす北条氏は、越後の安全を確保する上でも脅威だったためである。 天文21年(1552年)1月、上杉憲政を越後に迎える。4月23日、従五位下弾正少弼に叙任する。天文22年(1553年)9月、上洛して後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に謁見している。 同年、甲斐の武田晴信の信濃侵攻によって領地を追われた村上義清・高梨政頼(景虎の叔父)らの信濃国人が領地復権を望んで景虎のもとへ逃亡してくると、8月にはこれに応じて信濃に出兵し、川中島(長野市南郊)で武田晴信と対峙する(第1次川中島の戦い)。天文23年(1554年)、家臣の北条高広(きたじょう たかひろ)が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣してこれを鎮圧した。4月、晴信と川中島で再び対峙したが(第2次川中島の戦い)、決着はつかず対陣5ヶ月に及び、最終的には駿河の今川義元の仲介のもとに和睦して撤退した。 ところが弘治2年(1556年)6月、出家すると宣言して高野山(一説に比叡山)に向かう。この頃、武田氏との抗争や家臣同士の領土争いの調停で心身が疲れきっていたとも言われているが、天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した。弘治3年(1557年)4月、川中島に出陣する(第三次川中島の戦い)。しかし武田軍とは睨み合いに終始し、さらに越中で一向一揆が起こったため、撤退を余儀なくされた、永禄2年(1559年)4月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。景虎と義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕臣・大舘晴光を派遣して景虎・晴信・氏康の三者の和睦を斡旋し三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の溝は大きく実現しなかった。 永禄3年(1560年)3月、越中に出陣し、神保長職を破って椎名康胤を援けた。5月、関東に出陣して厩橋城で越年する。武蔵松山城を攻め落とし、永禄4年(1561年)3月に関東管領上杉憲政を擁して長野業正、小山秀綱、小田氏治、那須資胤、佐竹義重、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団10万の大軍で小田原城を包囲する。また、途中で関東の中心と目されていた古河御所を制圧し、北条氏の娘を母とする足利義氏を放逐し、自らが押す足利藤氏(本来の正統な古河公方)を古河御所に入れた。しかし小田原城自体は、落城させることができず、1ヶ月後に鎌倉に兵を引いた。 景虎は、このとき、上杉憲政の要請もあって鶴岡八幡宮において閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改めた。 関東管領の職は本来、古河公方(鎌倉公方)を助けることが職務であるため、北条に侵略されていた古河御所の奪還と、本来の正統な相続者である足利藤氏を古河公方に擁立することに成功した景虎は朝廷からも関東の諸大名からも認められた上杉氏の家督相続と関東管領就任であった。 もともと上杉家は足利宗家の外戚として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。異姓にして家臣筋の長尾景虎が上杉氏の名跡を継承するに至った背景には、かねてから上杉家に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉家から養子を出したことのある佐竹家からの養子を断られ、苦悩の末に越後の実力者である長尾景虎に継がせたという経緯がある。ただし、藩翰譜によると、政虎自身が上杉頼成の男系子孫であるという記述がある。応仁武鑑や萩原家譜案にも、上杉頼成の男子(長尾藤景)が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。しかし、他の系図では上杉家から養子を迎えたのは下総に分家した長尾であって、越後長尾氏には直接関係無いとするものもある。実際の血統は別にしても、長尾家も一旦は佐竹家と同じく、上杉家からの養子を迎えた家系ということになる。 武田信玄・北条氏康との戦い 第四次川中島の戦い帰国後の永禄4年(1561年)8月、1万3000の兵を率いて川中島に出陣する(第4次川中島の戦い)。このとき、武田軍と大決戦に及び、信玄の実弟である武田信繁らを討ち取ったが、上杉軍の死傷者も甚大で、結局痛み分けに終わった。11月、再び関東に出て信玄・氏康と戦う。しかし川中島における軍勢の被害が甚大であり積極的に戦うことができず、成田長泰や佐野昌綱にとどまらず武蔵国の同族上杉憲盛までもが北条方に降る。政虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦したが、関東における領土は主に東上野にとどまった(但し謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方)。12月、将軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎(てるとら)と改めた。 武田信玄と北信濃をめぐって川中島の戦いを行うが決着は着かず、結局のところ信濃の北辺の一部を掌握したのみで、村上氏、高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。永禄5年(1562年)7月と9月、越中に出陣して椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。永禄7年(1564年)信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。その間に信玄が信濃野尻城を攻略したが奪還し、後に川中島で再び対峙した(第5次川中島の戦い)。しかし60日に及ぶ対峙の末に撤退し、決着は着かなかった。 関東の戦線では謙信が永禄5年(1562年)に上野館林城主の赤井氏を滅ぼした。その後は武蔵の成田氏、下野の小山氏、下総の結城氏を降伏させた。永禄7年(1564年)には下野の佐野氏を数度降伏させた。永禄9年(1566年)には常陸の小田氏を再び降伏させ、下総の千葉氏の拠点である臼井城へ攻め寄せた際も城をほぼ陥落させている。ちょうどその頃、武田信玄が上杉方の西上野を次々と平定し、長野氏や倉賀野氏を滅ぼした。謙信は信玄の攻勢を食い止めようと上野和田城を攻めたが失敗する。そのため謙信に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条に降る。上野厩橋城の北条高広まで北条に寝返った。さらに謙信は奥州進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。 永禄11年(1568年)、越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために松倉城・守山城を攻撃したが、5月に信玄と通じた重臣の本庄繁長の謀反のため、越後に戻った。11月、繁長の謀反を鎮圧。12月、武田と断交した今川氏真に救援を懇願される。永禄12年(1569年)には蘆名盛氏の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた出羽の大宝寺義増も輝虎に降伏し、出羽庄内地方を手にする。 永禄12年(1569年)3月、武田信玄を牽制するため関東管領である輝虎にとっては宿敵である北条氏康と同盟する(越相同盟)。この同盟に基づき、上野国の北条方の豪族は謙信に降る。北条高広も帰参が許された。元亀元年(1570年)、氏康の7男(異説あり)である北条三郎[2]を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。12月には法号「不識庵謙信」を称した。 越中・関東出兵 元亀2年(1571年)、北条氏康が死去し、後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、その後両軍と利根川を挟み対陣した。8月、北国に矛先を転じ、越中の一向一揆勢力らと戦い富山城を奪う。11月、大規模に動員した信玄と交戦状態に入った、織田信長の同盟の申し出を受ける。その後越中に出陣したが、信玄に通じて反乱を起こした一向一揆に悩まされ、年末まで一向一揆と戦った末に、これを制圧した。 元亀4年(1573年)、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の脅威が薄らぎ越中の過半を制圧、江馬氏の服属で飛騨にも力を伸ばした。同年に北条氏政が上野に侵攻、これに対するため天正2年(1574年)、関東に出陣して金山城主の由良氏を攻撃して戦果をあげた。北条氏政が下総関宿城の簗田氏を攻撃するや、謙信は北条方の武蔵騎西城・忍城・鉢形城下など諸城を相次いで攻めて後方かく乱を狙ったが失敗、関宿城は降伏してしまった。同年12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。天正3年(1575年)1月11日、養子の喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。 織田信長との戦い 天正4年(1576年)2月、信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と講和する。このとき、武田勝頼とも和睦して信長との同盟を破棄し、新たに謙信を盟主とする反信長包囲網を築き上げたのである。 天正4年(1576年)9月、越中に侵攻して一向一揆支配下の富山城、増山城を落とした。次いで椎名康胤の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、越中を平定した。11月、能登に進み畠山氏の居城・七尾城を囲んだ(七尾城の戦い)。しかし七尾城は堅城であり、攻めあぐんで越年する。天正5年(1577年)、春日山に一時撤退した。その間に畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏7月、再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する。このとき、城内で疫病が流行、厭戦気分が蔓延し、9月15日に遊佐続光らが謙信と通じて反乱を起こした。信長と通じていた長続連らは殺され、七尾城は落城し、能登も完全に上杉家の支配下に入った。 一方、長続連の援軍要請を受けていた織田氏は、柴田勝家らの先発隊3万、信長率いる本隊1万8000が加賀に向かっていた。謙信はこれを迎え撃つため、9月17日に末森城を落とし、9月18日には松波城を攻め落とした。9月23日、柴田勝家率いる織田軍は、手取川を渡河したところでようやく七尾城の陥落を知った。慌てた勝家は撤退命令を出したが、謙信は渡河に手間取る織田軍を追撃して大勝したとされる(手取川の戦い)。