■ECB

欧州中央銀行。1999年のユーロ発足に先立ち、1998年新たにユーロ圏の中央銀行として設立されました。 受領名は備前守。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため死後の寛永9年(1632年)に贈られた)。現代では「浅井」が「あさい」と読まれることが多いが、当時の読みは「あざい」が正しい。 セミナーを北近江の戦国大名として成長させ織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、のちに信長と決裂して戦い敗れて自害し、浅井氏は滅亡した。 生涯 横浜 土地 天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江観音寺城下(現在の滋賀県安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸。 当時、データ復旧は六角氏との合戦に敗れ初代当主・浅井亮政の築いた領地を失い、六角氏に臣従していた。そのため長政自身も生母・小野殿と共に六角氏との停戦のための人質になったとされる。久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。 15歳で長政が元服した時、CFDは六角・浅井の関係が臣従関係にあることをはっきりさせるため長政に対し六角氏の当主六角義賢の一字をとって「賢政」と名乗らせる。また、六角氏の家臣・平井定武の娘との婚姻も強いた。 このような状況に不満を持つ家臣達は知勇に優れた長政に期待をよせ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続したのであった。長政は六角氏から離反を明らかにするため「賢政の名」と「平井定武の娘」を六角氏に返上し、名を新九郎に戻した。 外貨預金の成長と六角家の衰退 永禄3年(1560年)、長政(新九郎)は15歳の若さで軍を率い六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦ぶりを披露した。これによって重臣の赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。 野良田の戦いの勝因は短期間で寄せ集めの軍備しかできなかった六角氏と異なり、久政隠居の頃から合戦の準備を始めていたためと思われる。また朝倉氏に援軍を求めた様子もないことから朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政本人が戦の主導権をとっていたという見方もできる。合戦後は朝倉氏との関わりを少なくした独立政治を展開している。 永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された。世にいう観音寺騒動である。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった時期である。 同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転・機動させて六角軍を撃破した。殿を守らせた清綱はわずか500の兵で見事な働きを見せた。 この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議によって膠着状態が続く。 織田信長と同盟 浅井長政夫人画像1560年代(時期明確にならず)、織田信長は斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政と同盟を提案した。同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣の中では賛否両論であり重臣・遠藤直経も反対だったという。最大の問題は、信長と盟友である朝倉義景の歴史的な不仲だった。西美濃勢が信長寄りに振る舞う度に領地が油阪で通じることになり、互いに挑発を繰り返していた。家臣は朝倉親交派と独立派で分断されたが、最後は長政の決断によって批准した。 「同盟がある限り、織田は朝倉に進軍せず。また、どのような事態でも朝倉に進軍する時は必ず一報をいれる」との条件を付した上での同盟だと言われる。また同盟の際、長政は信長の妹の市を妻とした。この同盟によって信長は上洛進路を確保し、朝倉氏に滞在している足利義昭も手中にする。そして長政は信長という大勢力との繋がりができ、他の大名に大きな牽制になった(逸話によると直経は、お市の婚姻のさいに訪れた信長の暗殺計画を長政に提案したという)。また同盟時、信長は大いに喜び通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている[3]。 永禄11年(1568年)7月、朝倉氏に滞在していた足利義昭は一向に上洛の意志をみせない義景に見切りをつけ、信長に身をよせた。これによって、9月に信長は上洛を開始した。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃。これにより長政の宿敵である六角氏は比叡山に撤退。浅井氏も義昭を守護しながら上洛を掩護した。 同盟破棄・信長包囲網 元亀元年(1570年)、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川軍を背後から急襲。信長は殿を務めた池田勝正らの功績などもあり、苦戦しながらも近江を脱出した(金ヶ崎の退き口)。 信長との同盟に反対していた家臣達は信長が朝倉攻めに際して浅井に一報を入れなかったことから、隠居中の久政をかつぎ出し長政に対し織田軍への進撃を提案したと言われている。重臣の清綱、員昌、直経はこれに反対したといい、信長への進軍は反信長の家臣達の暴走という説もある。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録もない。 同年6月には長政は朝倉軍とともに姉川の戦いで織田徳川連合軍と戦う。浅井軍の先鋒・磯野員昌が織田軍の備え13段のうち11段まで崩す猛攻を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという。しかし長政の側面に位置していた盟友の朝倉軍は、徳川軍の3倍の兵力があるにも関わらず榊原康政らの猛攻により敗走。結果として浅井軍の側面に隙ができ、そこを織田軍別働隊の美濃三人衆に突かれ浅井軍も崩れて敗走した。これによって徳川軍の強さは天下に響き、朝倉軍の脆弱さも浮き彫りになった。 姉川の後、本願寺(野田城・福島城の戦い)・毛利・武田・上杉など諸大名が反信長の意志を起こした(信長包囲網)。また藤堂高虎は姉川の戦いに名もない兵卒として参戦し、多くの武功をあげ長政に感状を送られた。 9月には朝倉軍や延暦寺、一向宗徒と連携し再び信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成、織田信治らを討ち取る。だが浅井氏と協力関係にあった比叡山延暦寺は、元亀2年(1571年)9月に信長に焼き討ちにあい壊滅してしまう。 信玄が動く 元亀3年(1572年)7月、信長が5万の大軍を率い北近江に来襲した。長政は同盟国である越前国の義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続いたが浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況であった。 同年9月、将軍足利義昭の要請に応える形で武田信玄が2万7,000の軍勢を率い甲斐を進発。信玄はこの時、長政・久政親子宛に書状を送っている。 「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候」 その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を蹴散らし(三方ヶ原の戦い)、三河に進んだ。長政らに与えられた役割は、北近江の織田軍を岐阜に戻さないことである。北近江に織田軍を釘付けにすれば信長は全力をもって信玄の軍勢とぶつかることができず、反信長連合軍の勝機は高まる。織田軍の物量に押されじわじわと追いつめられていた長政にとって、信玄の西上は必ず成功させたい重要な作戦であった。 しかし同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が兵の疲労と雪が降ったことを理由に越前に帰国。義景の撤退により北近江に縛られていた織田軍は悠々と美濃に戻った。長政の寡兵だけでは退却する織田軍の追撃を行えなかったからである。信玄は義景の独断に激怒し再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送ったが、義景はそれに応じることが出来ずだんまりを決め込んだ。それでも信玄は義景の再出兵を待ち軍勢を止めていたが、翌年2月には何の反応も示さない義景に痺れを切らして家康領の野田城を攻め落とす。しかし信玄は長陣の疲れや真冬の寒さ、義景に対してのストレスなどの影響によって以前から深刻な状態であった持病を致命的に悪化させてしまい病死。武田軍は甲斐に退却した。これにより包囲網は完全に破綻し、信長は易々と大軍勢を長政・義景に向ける事が可能になったのである。 浅井家滅亡 詳細は小谷城の戦いを参照 浅井長政画像天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を落とし始めるとまともに交戦もしないうちに越前に撤退を始めた。信長は逃げる朝倉軍を追撃し滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、軍を浅井氏に向けた。 もはや長政に反撃の手段は無く、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の小谷城(滋賀県湖北町)が織田軍に囲まれる。しかし信長は一気に進撃せず、何度も降伏勧告を譲渡した。降伏した後は大和へ新領地を与えるという、裏切りを嫌う信長にとっては破格の案も出されたという。光治、木下秀吉なども使者として送られたが長政は断り続け、最終勧告も決裂した。 長政と仲睦まじかった正室の市は運命を共にする決意であったが長政から諌められ、帰還を決意した。市が信長の陣営に帰還する時、浅井・織田軍も一切の攻撃をしなかったと言われている。 同年9月1日(9月26日)、父の久政と共に自害。享年29。 一級史料と評される信長公記には天正2年(1574年)の正月の宴席において箔濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景、久政・長政父子の三ツ首を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を楽しんだとある。尚、これを杯にして酒を飲んだという俗説もあるが史料には見当たらない。 墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。